不登校生徒の受け入れについて
まつがくでは、学校に通学休止中の生徒さんも多くお預かりしています。まつがくの超個別指導は学校の授業を受けていない生徒たちにも実のある学びの機会を提供します。
ここがポイント!
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個別最適化した学習指導
AIを使った個別最適化指導により、学年の枠を超えて生徒ひとりひとりに合った最適な範囲を学習できます。苦手教科はとことん基礎に戻り、得意教科はどんどん先に進んで自信を高め、学力を向上させます。
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個性に寄り添った個別コーチング
定期的に個別コーチングを行い、ひとりひとりに合った目標と進捗を話し合います。生徒自身から出る「気づき」や「意欲」を大切にし、実行可能な学習計画を立て、寄り添い併走します。
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月謝定額制を活用し生徒に合った通塾スタイルを提供
まつがくでは定額制通い放題を採用しています。教室が空いている時間、いつ・どれだけ塾に来ても料金は変わりません。体調によっては自宅でのオンライン学習も可能です。その時その時の生徒の状況に合わせ最適な通塾スタイルを随時ご提案します。
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的確な進路指導・進路相談を行います
学校の欠席が多いと進学に不利になるのでは、という不安をお持ちの生徒・保護者の方もいらっしゃるかと思います。まつがくでは正確な情報に基づく生徒ひとりひとりにあわせた的確な進路指導により、安心して志望校合格に向けた学習に取り組めるようサポートいたします。
不登校をめぐる現状
2023年10月4日、小中学校の不登校児童生徒数は29万9048人で、前年度比で22.1%増加であることが文部科学省より公表されました。 うち中学生は193,936人で、中学生全体の約6%を占めます。 いまや中学校のクラスに1、2人は不登校児童がいるということです。
不登校について知っておきたいこと
お子さんが不登校になり、学校に復帰できるのか、進学に不利になり、将来の選択肢が限られてしまうのではないかなど、不安を抱えている方もいらっしゃると思います。
しかし、不登校になったからと言って必ずしも将来を悲観する必要はありません。1. 学校に復帰するだけが選択肢ではない。国も「不登校であっても適切な教育を受けられる機会を整備する」という方針に。
不登校児の増加にともない、国も不登校児童生徒の教育機会を適切に維持する支援を整えています。
2016年には不登校児童が教育の機会を失わないことを目的とした法律「教育機会確保法」が成立しました。
この法律では、全ての生徒が安心して通える学校環境の整備を求めるとともに、登校を強制せず、それぞれの子どもにあった学習環境を学校外の様々な機関や関係者が協力して保障することを積極的に推進しています。
長野市でも、令和元年10月25日付文部科学省通知「不登校児童生徒への支援の在り方について」にある「不登校児童生徒の一人一人の状況に応じて、教育支援センター、不登校特例校、フリースクールなどの民間施設、ICTを活用した学習支援など、多数な教育機会を確保する必要があること」に基づいて「学校以外の子どもの居場所 施設・団体一覧」を紹介しています。
(リンク先:https://www.city.nagano.nagano.jp/n601000/kosodate/p001547.html)
掲載されている施設に限らず、児童が学習を継続し、社会的自立につながる活動ができる場所を見つけることが目指されています。2. 学校外での学習の提出により、出席扱いとなることがある。
教育機会確保法では、不登校児が学校外(学習塾や自宅)でICTなどを活用した学習活動を行った場合に、一定の条件を満たせば「出席扱い」とすることが認められています。
出席扱いにできるか否かは、利用している教材や、どこで学んでいるかに関わらず、各学校の校長が判断してよいことになっています。3. 欠席による内申点の影響を、過度に心配する必要は無い。
公立高校入試の合否判定は、調査書(内申点)と入試当日の点数の組み合わせで行われます。そのため、不登校児童生徒は高校入試において不利なのではないかと心配される方も多いと思います。
ですが、まず私立高校の場合は、ほとんど不利になることはありません。
また、公立高校であっても、不登校児童生徒が不利にならないよう配慮されるケースが出てきています。
長野県教育委員会は、2024年度県立高校入試より、調査書の「出欠・健康の記録」欄を削除する方針を示しています。
また、内申点は定期テストや授業中の関心、意欲をもとに評価される仕組みであるため、テストや授業を受けていない場合には判断材料不足により内申点をつけることができず、「斜線(内申点の記載がない状態)」になりますが、東京都教育委員会は、この斜線が受験に不利にならないよう、各高校へ配慮を求めているとされています。
不登校だからといって、内申点がつかない、希望する高校に進むことができない、と悲観する必要は必ずしもないということです。